自分のこと。

日記と自分語り。

自分自身の「社会になじめてない部分」って意外となくない? 2022/11/04(金)

最近、家にいる時間はだいたいYoutubeでオモコロチャンネルを観ているので、本を読む機会がめっきり減った。
それでも、通勤電車と自宅のトイレでは読むようにしている。どっちも10分くらいだけど。

ここ1ヶ月は、少し前に買った保坂和志著の『書きあぐねている人のための小説入門』を読んでいる。
紀伊国屋で平積みされていて「読みあぐねている人にもおすすめです!」みたいなポップに惹かれて買ったものだ。
決して、お金ないし副業に小説書けたらいいな~、みたいな軽い気持ちで買ったのではない。決して。

まず、さらっと1周読んでみたのだけど、まったく内容が頭に入ってこない。
ただ、ところどころ気になるフレーズがあるなぁ、とか、深そうなことが書いてあるなぁ、などの浅はかな感想を抱くくらいには興味を持てたので、2周目としてしっかり読んで見ることにした。
なかなか序盤から進めない。
ちょっとずつ自分のなかに取り込めている感覚はあるけど、読み切るにはまだまだ時間がかかりそう。
あせらず気長に読みましょう。

序盤、「社会化されている人間のなかにある社会化されていない部分をいかに言語化するか」ということが小説を書くことだ、みたいなフレーズが出てきて、印象に残った。
著者の小学生時代の卒業文集が例に挙げられていて、みんな「桜が満開のなかでお母さんに手を引かれて歩いてきた6年前が昨日のことのように思い出されます。」みたいなよくある文章を書いていた中、ひとり「四年のとき ながしの すのこで ころんで つめをはがして いたかった。」と書いていた子がいたらしい。
シンプルに、え~めっちゃ詩的じゃ~んって思った。

でも、一風変わった文章を書いたこの子はいじめられっ子だったらしい。
先生も、本来ならもっとクラスのみんなが書いているような文章に近づかせるように指導すればよいところを、さらし者にしようとそのまま卒業文集に乗せてしまったらしい。
たしかに、自分が小学生の頃に「ながしの すのこで~」を書いている子がクラスにいたら、少なくとも、え~なにそれ~変なの~くらいには思っていたんじゃないか。

ただ著者に言わせると、この個性あふれる変な文章こそが小説のはしくれである、らしい。
小説は人間を圧倒的肯定するものであり、肯定されるべきはその人の「社会化されていない部分」ということ。
学校教育や社会を経験すると、誰しも社会になじんでいく。
その中で、なじむことができなかった部分、というのが誰しもあるはずで、そういった部分はネガティブなものとして捉えられやすい。
たとえば僕だったら……僕だったら……なんだろう……
まあとにかく、そういう社会化されていないネガティブな性質すら、言語化することでひとつの芸術として昇華される、みたいな解釈をした。

これ書いてて思ったけど、自分の社会化されていない部分ってたくさんありそうに思えるけどいざ考えてみると全く出てこない。
出てこないというか、思いついても、いや別に社会化されてないって言うほどのもんでもないなぁってなる。
つくづく社会になじんだつまらない人間になったんだなって思えて悲しくなった。
粗探し、ではないけども自分のネガティブな部分にもう少し目を向けてみようかなと。
疲れやすい、とか対面のコミュニケーションが苦手、とか漠然としたのは思いつくんだけども。
もうちょっと言語化できるように、ブログ更新を続けてみます。

では、また。