自分のこと。

日記と自分語り。

2022/04/20(水) 休息とは、外からの刺激を受けることではない。

仕事後、今年一番の疲労感・ストレスを感じていた。

これはまずいと思い、体を動かしにバッティングセンターへ向かった。無心になってボールを打つのは楽しく、凝り固まった精神が少しほぐれた。手の皮が一部剥けてしまった。
その後、外食で中華を食べ、喫茶店ではケーキを食べながら読書をした。中華もケーキも、一口ずつ時間をかけて味わうようにして食べると、心が安らぐのを感じた。ケーキを食べ始める頃には、ストレスはすっかり消えていた。

最近、読書をしたり、ゆっくりとした時間をとることに時間を使うようになってから、ストレスをうまく解消できるようになった気がする。
従来、ストレスが溜まった時はたくさん寝たり、YouTubeを見たり、音楽を聴いたりしてストレスを解消しようとしていたのだけど、正直うまくいってなかったと思う。自分でもうまく解消できていないのがわかっていたので、そもそもストレスがたまりそうな展開を避けるようにしていた。何事にも消極的な生活態度だった。

ただ、読書で自己形成をしたり、自炊した食事をじっくり味わったり、何もせず「ぼんやり」と過ごして内省することでストレスを解消できると知った今は、多少自分に負荷がかかりそうなことに対しても、手を出しやすくなってきたと思う。以前までの自分と比較すると多少活動的になったと思う。

ジャーナリストの辰濃和男は、著書『ぼんやりの時間 (岩波新書)』で次のように語っている。

「閑な時間ができることで、何よりもありがたいことは、すり減った神経、疲労、消化不良のかわりに、人生の幸福と歓喜が生まれてくることだろう。ストレスに押しつぶされていた心は、閑を上手く享受することで、徐々に心身を解放させてゆくことになるだろう。働くことでくたくたになっていては、楽しみは受け身のものになる。仕事に精力を吸い取られたものは、スポーツの試合を見る、刺激の強い映画を見る、といった受け身のたしなみにすがることになるのだ。」p.187,188

疲れてしまった心と体に本当に必要なことは、映画や動画といったコンテンツを「受け身」になって楽しもうとする(疲れている時ほどついやってしまう)ことではなく、ゆっくりとした時間を過ごすことなのだ。
すり減っている神経に対して刺激の強い娯楽を与えてしまうと、疲れを取り除くことはできない。閑な時間、休息が必要なのだ。

では、また。